>

「精進落とし」の「精進」とは

「穢れ」に対する神道の考え

人の死が穢れているのかと疑問に思う人もいると思います。
しかしここでいう穢れとは私たちが思う「汚れているもの」とは少し違うようです。

神道では、「穢れ」に触れてしまうと、神は力を失ってしまうと考えられており、それを祓う儀式が執り行われます。
その一つが12月31日の大祓であり、私たちは知らず知らずのうちに「穢れ」を祓う行事を行っているのです。

しかし、この罪や穢れは決して悪いものとしているわけではありません。
厄災を「穢れ」としてお祓いする一方、それ以外にも「穢れ」があります。

例えば家族が亡くなったら年賀状は送らず喪中はがきを出すことは皆さんご存知だと思います。
それだけでなくお正月飾りや初詣なども行わないことも知っていると思います。
これは人の死を「穢れ」として避けているのではなく、近しい人の死に触れて落ち込んでいる状態が「穢れ」であり「気枯れ」ということになります。

仏門での「穢れ」

私たちは家族や親しい人が亡くなると、悲しみ寂しさを多く感じたり塞ぎ込んだりしてしまうこともあるでしょう。
仕事や学校などの日常生活に戻るにも時間がかかる場合もあるのではないでしょうか。
その状態こそが「気枯れ」であり「穢れ」であるのです。
そして神道ではその時期には神社へのお参りは控えるようにと言われています。

しかし仏教では人の死を「穢れ」とはしません。
仏教において人の死は、次へ転生する輪廻に組み込まれものであり、それを否定すような概念はありません。
仏教でいう「穢れ」とは、日常生活の中で蓄積されるものであり、人の死を指すものでありません。
なにより、喪中に避けるよう言われてる神社とは違い、お通夜や葬式は僧侶を呼びお経をあげてもらうわけですからむしろ受け入れられてくれているようにさえ思えます。

ただどちらにしろ人の死に触れた「穢れ」を落とすことを「精進」ということになります。


この記事をシェアする

▲ TOPへ戻る